道場町の歴史

古(いにしえ)からの風景



縄文~弥生~古墳時代からの風景


道場町は太古の時代から栄えてきた歴史と伝統あるまちです。町内各所から縄文時代から弥生時代(約12000年前から1700年前)にかけて人々が生活を営んだ形跡があり、土器や遺跡が出土しています。道場町は昔から人々が住みやすい土地柄でした。

中野古墳

三角縁三神一仏四獣鏡

塩田北山東古墳から出土した青銅鏡

北神古墳

有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)

縄文時代に作られた石製ののやり先


聖徳太子ゆかりの地


獨鈷山 鏑射寺(とっこさん かぶらいじ)

聖徳太子が敏達天皇の10年(581)に、仏教を広げるための道場として、この地にお寺を建立されたのがはじまりです。寺名の由来は、太子が鏑矢を射ると敵は戦わずして兵を引いたことによるといわれています。

三鈷山 太福寺(さんこさん たいふくじ)


聖徳太子が三歳の時に疱瘡(ほうそう)にかかり、乳母などとこの地を訪れ、病が治るようにと滝修行をされたところ、結願(けちがん)の日の朝方、十一面観世音菩薩が夢枕に立ち病が急速に治癒しました。太子はこの霊験あらたかなるを喜ばれ、人々の幸福を願い太福寺が建立されました。


雀のお頭


聖徳太子の命日とされる2月11日に、毎年木彫りの雀を太子像にお供えし、無病息災を祈り、前年に生まれた檀家の赤ちゃんに授けられる行事が続いています。


中世からの風景

道場の町筋は古くからの街道であり、江戸時代には宿場町として旅籠(はたご)が立ち並んでいました。参勤交代のルートでもあり、丹波杜氏が西宮へ酒造りに通った道(くらがり街道)で、有馬への湯治客の往来などで賑わっていました。

中世の宿場町

道場河原駅人足牛馬駄賃切手


昭和の風景

時代の変化とともに宿場町としての役割が薄れ、今から70年ほど前には、商店が立ち並ぶ商店街となり、道場町内だけでなく近隣地域の経済活動の中心となっていました。

千苅貯水池堰堤


堰堤の築造は1914年5月に着工、1919年5月に完成し貯水量は約600万㎥で、その源水の水質は日本でも1~2位という良質で神戸市の水源を担うことになりました。その後、1929年4月に貯水池堰堤のかさ上げとそれに付帯する放流堰堤のかさ上げ工事などが着工され、1931年8月に完成し、貯水量は拡張前の2倍の1,161万㎥となり、現在に至っています。

写真提供:神戸市水道局

合併調印式


 1951年3月、神戸市との合併の賛否を問う住民投票を経て、村議会で合併案が満場一致で可決された。これを受けて同月、合併調印式が行われ、道場町は産業・文化・観光などの幅広い面で、躍進途上にある神戸市の一翼を担うことになりました。神戸市との合併は7月1日に実施され、7月16日に道場村の解村式並びに合併記念式典のほか、記念行事が全村挙げて行われ、郷土踊り、懐古行列、子ども神輿などが繰り出されました。

(出典:神戸市合併70周年記念誌(道場町連合自治会))